「ユーモアは人間だけが持っているものです」。敬愛する作家の北杜夫さんはそう指摘する。
もとは、ラテン語のフモール(Humor)という言葉が起源とされていて、これは「液体」「体液」を意味する。これが英語のユーモア(Humor)となり、人間の気質を示す言葉として広まった。面白みや諧謔(かいぎゃく)、といった含意で使われることはご存じの通り。
人間だけが持っている(つまり人間以外の動物にはない)ユーモアは、風刺とは異なり、攻撃性からは遠い。人間らしいおかしみやその存在を慈しむ心持ちが底にないと笑いにならない。
のっけから小難しい話になったが、北さんがその昔、エッセーの中で自らの結婚についてユーモアを交えて書いた時のこと。奥さんを見初めて「その膝小僧が可愛かったので結婚した」と記したら、女性読者から「膝小僧が可愛かったという理由で結婚するとは何事か」と抗議の手紙が舞い込んだ。北さん、大いに困惑されたという。
「膝小僧が可愛い」だけで本気で結婚するはずもなし。ちょっとした面白みを入れたエッセーなのだが、通じない方もおられるのは、これは仕方のないことなのか、と読んでいた私も考え込んだ。
物事に向き合うセンスの問題なのかもしれないし、持って生まれた感覚も大いに影響するのかもしれない。ただ「人間だけが持っているユーモア」なのであれば、おおらかにその資質を楽しむべきだと思うのだ。
このネット社会でまん延する攻撃的な物言いは、使う側も受ける側も心や気持ちをザラつかせる。便利な半面、匿名性を利用して人の持つ攻撃的な心情をあらわにさせる道具だ。なんとかユーモアでその負の感情を包み込んで、生きていくことはできないものか。笑いから遠ざかる人生は、楽しいはずもない。【さ】